FUCK YOU お父さんとお母さんへ

 

私は今年で18歳になりました。今もまだあなた方の保護の中で生きています。親からの支援なしに現状の生活がままならない者にとっての葛藤のテーマは、おそらくどんな時代においても自立と依存の問題かと思います。自分ひとりの力で何かできるのではないかという期待と、自分はどこかで特別なのではないかという確信は、あなた方からの支援によって常に揺さぶりをかけられます。だからいつもありがとうと、簡単には言えない状況にあなたの子が置かれていることをどうか理解してください。そしてあなた方にもこのような葛藤を経験したのだろうと推測しますが、きっと、きっと、もう思い出せないでしょう。少なくとも自分のことのようには。

 

こんなバカバカしいと思える葛藤なんて、視点を変えてしまえばいいじゃないかと思うし、現にそうしたことを試したりしたこともあります。私にはこんなにも愛してくれている、支えてくれている家族をもっている、そしてその愛を背に頑張ればいいじゃないか。そう言い聞かせてみても、私の心はかたちを変えてくれる気配はありません。多くの場合、視点を変えれば現実すらも変わるものです。あの子はなぜあんなに学校で問題行動ばかりするのだろう。実はその子の家族関係は冷え切っており、唯一両親が二人顔を合わせて話し合うのはその子の学校での問題行動のことでした。その子の問題行動は離婚の危険にある家族を、解体する寸前のところで抱きしめているのかもしれない。この問題行動がなければ、すでに家族は解体していたかもしれない。このことに気づいた両親の関係は回復し、子どもの問題も随分落ち着いたようなんです。けれど人生全ての問題にこのような方法が通ずるのか甚だ疑問です。

 

例えばPTSDのようなトラウマ体験。人は想像を絶する経験を人生の中で経験することがあります。そしてその体験をしたという事実は変わりようがなく、記憶に深く深く抉り刻まれます。トラウマになるような体験は記憶に刻まれてしまう、というよりも記憶に落ちないことの方が重大です。
今さえあればいい、全てを捨ててもいいと感じ、あなたと私でひとつなんだ、そう感じながらながら恋愛し、そして終わっていった愛の記憶は、そのド派手な感情の痕跡にも関わらず、後の人生を低温で強く温めてくれるものであったりします。しかしどうして、あんなに傷つけあった愛の痕跡は、「いい思い出」として私をこんなにも暖かい気持ちにさせるのでしょうか。

 

視点の変更。思い返してみればあの恋はひどかったけど、それでもよかったよね、となぜ人は言えるようになるのでしょうか。それは視点を変えてみて、こういう見方もできるよね、というようなことではないように思います。喪失を生き抜くことは視点の変更のことであるはずがない。失恋の後、あなたも私も何度も何度もそのときを思い出し、また思い出し、永遠にも思える時間を無駄にして、そしていつのまにか霧がかった道を抜けて平野にでる。振り返ってみれば霧は晴れていて、なぜ自分がこんなにも道を歩くことすら苦しかったのかをもう思い出せない。仮に記憶に視点の変更が加えられるのは平野にでてからのことであり、全くもって視点を変えることすら不可能な事態が人生には溢れている。


お母さんお父さん、私は自分のことを愛しています。信じがたいことですが、どうやらあなた方にも私と同じ年齢の時代があり、そして同じようなことで思い悩んだ時期があるのですよね。けれどあなた方はもうそのときのことを自分のこととしてありありと思い返すことができないでしょう。だからこそあなた方と私は今まで多くの言い争いをしてきたのでしょう。

 

私はいま文章を書いています。しかもかなり急いで、追われて書いています。ある直観があるからです。どうやら私も、あなた方と同じように、この霧がかった道を抜けて平野にでるような気がするのです。そして振り返ったときにはもう霧は晴れていて、自分が何に苦しんでいたのか忘れてしまいそうなのです。記憶に落ちてしまいそうなのです。いつかは分かりませんが、そういう気がするのです。もう今の感覚は思い出すこともできなくなるような気がするのです。1日が24時間以上の密度ではなくなる気がするのです。そして私もあなた方と同じ側になってしまいそうなのです。これは視点の変更ではありません。何も変わっていないのに何かが変わるという予感に突き動かされて私は私のことを書いています。


お父さん、私が3歳くらいのときの話です。私はとても階段が好きで、一人で階段を上ったり下りたりするのが好きでした。ある日あなたは私を階段の5段目に立たせ、階段の下から「ジャンプ!」といいました。私は階段は上ったり下りたりするものだと思っていたので、ジャンプすることがとても怖かった。泣き出しましたが、あなたはじっとまって「ジャンプ!絶対大丈夫!」と言い続けました。私はついに意を決しジャンプし、あなたの胸に飛び込みました。するとあなたは私を階段の6段目に立たせ、「ジャンプ!」といいました。そして7段目に立たせて同じことをいい、8段目に立たせて同じことをいいました。わたしのお父さんについての最古の記憶はこのエピソードです。私はこの記憶をとびっきりの愛の記憶だと感じています。こんなにジャンプを怖がる私をじっと待ち、そして恐怖を消し去るように私は飛躍し、無限にも思える空中での時間と私を諸共抱きしめてくれました。そして階段の高さがどれだけ変わっても、もう私には恐怖はなく、あなたに向かって飛び込みさえすれば、絶対に愛してくれるという強い確信があります。思春期に入っていろんなことがありましたが、いろんなことができたのはあなたへの愛の確信があったからです。私が生まれた時、趣味だったレコードの店をやめて工場に働きに行ったことを知っています。趣味のサーフィンとテニスをやめて、昼も夜も働いていたことを知っています。とても忙しいあなたはお母さんに、子どもに関わる時間がないことを申し訳なさそうに話したことも知っています。えっへん。色々知っています。そんなあなたが私のために向かい合ってくれた数少ない記憶のひとつが階段のエピソードです。他にもあっただろうとあなたはいうかもしれません。けれど残念です。本当の意味で私の心に触れたのはそのときだけです。というよりも恐らく、そのときに私のこころができあがったのです。あなたが私に触れたから、外と内とが分かれました。あなたの触れるという行為が触れられるという私をつくりました。それは心というものです。ありがとうね。安心して下さい。視点の変更を加えて、私の父親は子どもにジャンプを強制する支配的な父親だと改変するつもりはありません。そんなこと私が許してくれません。


お母さん、あなたは私をみていますか?私が中学生のとき、あなたからおこずかいを2000円もらっていました。その金額に見合わない量の香水や服や雑貨が私の部屋にあったことを知っていますか?

友達を殴ってしまい、相手方の歯を4本折ってしまったとき、あなたは泣きましたね。そして相手方の家族が「子どもの喧嘩ですからどうか頭を上げて」といって若干引くくらい、あなたが土下座しているのを隣で見ていました。きっと相手の子は、私の親は私のために怒ってくれないのだな、とか思っていたのかもしれませんし、そこまで気にしていなかったのかもしれません。私はというと反省もできず、ふてくされ、お母さんのみたくないところをみてしまったりして、すごい気分が悪かった。相手の家から帰るときの車の中は本当にここだけ重力がかなり強く張っているみたいでした。母と私、どちらが先に口を開かなければ、この重圧はきえそうにありません。

結局一言もしゃべらずに、自宅まで帰り、あなたが最初に話したことは「そろそろさ、万引きもやめてよ」でした。やっぱりあなたはちゃんと私のことを見てくれていたと感じました。私があなたに心を触れられたのは実はこのときが初めてです。もっとちっさい時にもあったでしょと思うかもしれませんが残念。そしておそらくこのとき初めて私の心が生まれました。あなたのみるという行為が、あなたにみられている私の心を作りました。不思議なのは父親の方が早く私の心に触れたことです。私は父親を長く嫌ってきたのに、あなたの方が私の心に触れるのが遅かったというのは少し腹が立ちます。体感的にはあなたの方が早いと思うんだけどなぁ。

 

親愛なる家族へ。恐らくですが、こんな憎たらしい私は消えてしまいます。そんな気がします。直観ですが多分当たります。あなた方だってそうだったんでしょう?そして思い起こせなくなったんでしょう?だったらこれから消えゆく私にお別れをしなくちゃいけないし、あなたがここに存在したんだということを記憶としてどうにか残せないかと模索することは悪いことじゃないでしょう?きっと死んでしまうあなたのことを、私は恐らくもう思い出せなくなるけど、思い出せないけど在るという感触を残すことはできるとおもうんだよね。残り香みたいなもの、触れられて凹んだ皮膚みたいなもの。

 

お父さんお母さん。私はあなたを愛しています。けど愛しているということが愛していることではないように思います。おそらく今の私はそろそろ消えます。あなた方からも消えます。私に愛された感触を感じ取りたければ、この言い争いの日常生活から、どうか私の愛の感触を探り当ててください。上から目線でごめんね。きっと微かにしか感じ取れないかもしれないけど、かならず愛していますから。それは視点の変更を加えて、お父さんとお母さんにとって子どもとの言い争いの日々は苦しく怒りに満ちた時間だったけれど、事後的にお父さんとお母さんを私が愛していたという記憶にすり替わることじゃありません。今現在、まさに今、あなた方を愛しています。本当だよ。今までありがとうね。これからもよろしくね。