大学院とインプットとオートポイエーシス

普段僕は文章を書く時間がほとんどない。大学院生は基本的に時間がない。臨床心理の大学院に進んだ者の多くが大学併設の心理相談室で受けもつ心理ケースと、修論に追われているはずだ。そんな中で私的な文章をアウトプットしようと思うと大変なのである。大学院での生活は殆どがインプット中心になる。臨床ケースを担当し、各教員が持つ世界観を少しでも理解しようとするとあっという間に時間は足りなくなってしまう。

 

僕が文章を書くときは恋人が寝静まったときだ。これは夜中に寝静まったときではない。夜中はこちらも眠いし、次の日に授業がある。基本的には休日、午後を過ぎたあたりで恋人が昼寝をしてくれると書く時間ができる。僕はそうなると近所の大型デパートに出掛けて3階のゲームコーナーの前のベンチに座り、携帯片手に文章を残している。

僕の入った心理大学院では精神分析と、その流れに属する学派が中心となっている珍しい大学である。なんとこのご時世に認知行動療法を専門とする先生はいない。若干就職に不安を覚えるが、そもそも他学部からの院進学であったため、僕は公認心理士の資格を取得することができない。これが意味するところは公的な補助金で経営が為されている病院などでは、今後働くことは難しいだろうということだ。

 

元々誰かを救いたいだとか、困ってる人を助けたい、のような動機で院進学したわけではなかった。考え続けていたのは社会学の方であり、心理学とは真逆の学問であった。元はといえば僕はニクラス・ルーマンの社会システム理論を熱心に勉強していたはずだった。社会システム理論を理解するにはオートポイエーシス理論に手を出すしかなかった。僕はオートポイエーシス理論を追いかけていたらどうやら精神分析に行き当たったらしい。

 

河本英夫がいうように、結局のところオートポイエーシス理論は臨床現場の理論であり、言葉でどうこうして理解したのであれば、当のオートポイエーシス・システムからズレていくという致命的な問題があった。

社会システムとは簡単に説明するなら、コミュニケーションを産出するシステムのことである。僕はこのシステムを2者間の小さなコミュニケーションシステムと想定したとき、殆どの心理療法は2者間の社会システムであると確信した。おそらく心を想定したり、脳をパーソナルコンピューターの情報処理システムとみなしたりする前に、心理療法は純粋な2者間のコミュニケーションシステムであるだろうと思った。つまり心の探求や認知科学による脳の探究だけが、心理療法を説明する特権的な言説ではないだろうと思った。システム論としても描けるはずである

 

認知行動療法精神分析ではクライエントが語る内容が全くといっていいほど異なっている。その証拠に逐語録をみればこのカウンセラーは認知行動療法家、精神分析家だという区別は殆どのカウンセラーができると思う。つまりそのシステムで支配的な会話のコードがあり、またそのコードを我々は逐語からでも読み取ることができ、このコードはおそらくそのカウンセラーが意欲的に創発したものである。そして治療的なコードは一義的に決定することができないし、歴史的にみればそのような治療的な会話のコードはカウンセラーによって発見、もしくは創発されてきたのである。だからこの世には沢山の心理療法があり、そして治療的に働くコミュニケーション・コードが沢山存在するのだろう。またクライエントの生命システムへの撹乱についての詳細な記述は未だあまりない。ただいえるのはカウンセラーもクライエントも社会システムに巻き込まれる形でコミュニケーションを行わなければならないということだ。カ

 

そもそも2者間のコミュニケーション・システムの側からみれば、カウンセラーもクライエントも、このシステムに巻き込まれてしまっているものであり、会話の内容を全て制御することは誰にもできない。心理相談室に来て、駅前にできたケーキ屋のモンブランが美味しいという話をしてもいいし、好きなアニメの話をしてもいい。実際に大学の学生相談室でこのようなことはある。またカウンセラーは自身の依拠する理論または経験に従い、カウンセラーという権力を用いてコミュニケーションシステムを治療的なものへと変えようと働きかける。それに抵抗するようにクライエントはクライエントの独自のやり方でコミュニケーションシステムをコントロールしようとするのであり、その程度の強さが強ければ強いほど神経症圏→境界例と判断される。そのためある心理療法が効く効かないの中には心理療法的関わりがもつ効果以前に、そもそも2人の間にコミュニケーションが成立するかという問題がある。2人で語り合うこと止め、恋に落ちる者も居れば、来なくなってしまいこともある。
つまりコミュニケーション・システムは可能性としてどのようなコミュニケーションが行われても構わず、またそれを完全に制御することはカウンセラーであっても不可能なはずである。

 

あなた(客観)でも私(主観)でもないシステムという第3の視座からみれば、カウンセラーがクライエントの問題を解消、または効果的に治療することと、コミュニケーションシステムのコードを創発することはかなり関係があるだろうと思った。カウンセラーにできるのはまず治療的に働く「場」の設定である。そして「場」とは治療的なコードに伴い産出されるコミュニケーション・システムとその空間のことである。

そういうことを考えているとどうやら実際に心理療法をやってみるしかないと思ったし、現場に出るしかないなと思った。そんなわけで外国語学部から鞍替えし、臨床心理系大学院の試験を受けたのだった。

僕のように半ば空想がどんどん湧いてきて、それが進路や将来に決定的な影響をもたらすタイプの人間に、僕がアドバイスをできるとしたら、それはどこかで現実と接点を持つべきだということである。僕は臨床系の中では比較的に理論を腹に据えているタイプの人間だ。我々はすぐに空想的観念が泉のように湧いてくるため、その空想に付き合いつつ理論のような硬いものに身を寄せるべきなのである。あわよくばその空想で身を寄せた硬い石を壊してしまいたいと空想しながら、石なしでは済ませられないと思うのである。

彼女は良く寝る子である。そして寝起きがとてつもなく悪い。まるで不意に起きてしまい不安になりお母さんを探す赤ちゃんのように(なんと精神分析的な!)。僕は今日みたいにデパートに1人で来るときは、帰りにタピオカミルクティーを買って帰る。そうすると幾分か彼女の機嫌が良くなることを経験的に知っている。僕は空想に耽り文章を書くと、とても脳内がリセットされて気持ちが良くなる。自分の空想を外に出すと色んなことに飽きることができる。そしてまた脳内に空想がゴミのように溜まってきたら、こうやって大型デパートの3階のベンチで吐き出して、日常へと帰っていくのである。