寝起き最悪なら朝ごはんにもやし炒め作れ

寝起き体調が悪い。頭は重いし血の量が全然足りていないと感じる。朝起きれないのではなく、朝がしんどいのだ。朝起きていても、身体が重すぎて、こんなにしんどいならもう一度寝よう、そう考えてしまい幾度となく寝坊を繰り返している。

色んなことを試した。寝起きに塩を舐めたり、ベッドから頭だけをにゅっと出してベッドの下を覗き込む姿勢になり、頭に血を昇らせたり、朝風呂してみたり、寝起きにカフェインの錠剤飲んでみたり、色々やった。けどどれもうまく行かなかった。これはもう自分の体質だと諦め、折り合いをつけて生きていた。

大学院生になってもこの体質はずっと続いていた。大事な研究発表の日に寝坊したこともある。朝起きることはできる。その後が問題だ。本人の必死さの甲斐なく、何度も何度もベッドに倒れそのまま寝付いてしまう。それくらい朝はしんどい。

たまたまもやし炒めを作りたくなった。あの料理は本当に奥が深く、何度作っても同じ味にならない。そして美味いし安い。アレンジが効く。

ところで僕が信頼を置いているのは林正樹という人の個人ブログで、ここのレシピは本当に美味い。そして「僕がどうやって中華料理を作れるようになったか」というタイトルの記事が、僕を中華の奥深さに導いてくれた。彼のレシピのほとんどは日本のスーパーで手に入るものばかりだ。もやし炒め(本格ラーメン屋風の肉野菜炒め)なんかはレシピの中に調味料は醤油、酒、塩胡椒、味の素、胡麻油しか出てこない。しかし恐しく美味い。レシピの調味料を全て混ぜ合わせたものを舐めてみる。全く美味しさを感じない。しかしこれらがフライパンの鍋肌で焼かれると、ケミストリーを起こし恐しく美味いソースになる。中華の火力はこのためにあるのだと理解する。

本題であるが寝起きが最悪な人はこの肉野菜炒めを朝作れば、改善するかもしれない。僕みたいな寝起き最悪の人間は身体がだるいだけでなく、胃腸も全く動いている感じがしない。身体の隅々まで動いていない感じがする。だから朝ごはんもほとんど食べたいと思えない。無理矢理食べるのが普通だ。そういうタイプの人にはほんとうにもやし炒めを進めたい。
https://cookpad.com/recipe/1206244
僕自身はこのレシピの調味料だけ真似し、材料はもやしと豚肉のみである。
寝る前に調味料を混ぜて器に入れておき、水溶き片栗粉だけ準備しておく。朝起きたら豚肉ともやしを冷蔵庫から出して、MAX強火で調理する。大体全ての工程を含めても5分かからない。卵焼きを焼くよりも早い。なのに驚くほど美味い匂いがする。身体が目の前のもやし炒めを食う為に活動し始めるのがはっきりとわかる。鍋肌に調味料が焼かれる時の匂いをかぐことがめちゃくちゃ重要だ。

僕が思うに、朝ごはんは匂いがほとんどないと思う。晩御飯を作る時の匂いで腹が減る経験は、定番の朝ごはんからは殆どしない。寝て起きるまでに6〜7時間も経ってるんだから腹が減っていて当たり前なのに腹が減らない、ならばちゃんと美味い匂いを嗅がなければならない。
ヤバウマな匂いを嗅いで腹が減る→身体が食う為に活動を始める→起きる
多分これが原理だと思う。
もやし炒めの利点は、朝の時間でも作れるほど調理時間が短いこと。そして他の料理に比べてほとんど飽きが来ないということ。
自分の1番好きな料理を朝に作れば良いじゃんと思う人いるかもだけど、2日続けてやれるか?大事なのは飽きないことの方で、好きなことではない。ちなみに僕も1番好きな料理はもやし炒めではもちろんない。けれども調理の際の匂いが半端ない。だから採用している。

 

まとめるなら寝起きの悪い人の中で、身体が動いていないタイプの人には、「美味そうな臭いを嗅ぐ」という嗅覚的刺激を用いて身体を起こす方法を紹介した。
僕の経験上、朝ごはんとして簡単に作ることができ、腹が減る匂いがする、そして飽きないものはもやし炒めであった。

 

一度体験してみて欲しい。普段朝に食欲のない人は驚くと思う。自分はこんなに腹が減っていたんだと。

大学院とインプットとオートポイエーシス

普段僕は文章を書く時間がほとんどない。大学院生は基本的に時間がない。臨床心理の大学院に進んだ者の多くが大学併設の心理相談室で受けもつ心理ケースと、修論に追われているはずだ。そんな中で私的な文章をアウトプットしようと思うと大変なのである。大学院での生活は殆どがインプット中心になる。臨床ケースを担当し、各教員が持つ世界観を少しでも理解しようとするとあっという間に時間は足りなくなってしまう。

 

僕が文章を書くときは恋人が寝静まったときだ。これは夜中に寝静まったときではない。夜中はこちらも眠いし、次の日に授業がある。基本的には休日、午後を過ぎたあたりで恋人が昼寝をしてくれると書く時間ができる。僕はそうなると近所の大型デパートに出掛けて3階のゲームコーナーの前のベンチに座り、携帯片手に文章を残している。

僕の入った心理大学院では精神分析と、その流れに属する学派が中心となっている珍しい大学である。なんとこのご時世に認知行動療法を専門とする先生はいない。若干就職に不安を覚えるが、そもそも他学部からの院進学であったため、僕は公認心理士の資格を取得することができない。これが意味するところは公的な補助金で経営が為されている病院などでは、今後働くことは難しいだろうということだ。

 

元々誰かを救いたいだとか、困ってる人を助けたい、のような動機で院進学したわけではなかった。考え続けていたのは社会学の方であり、心理学とは真逆の学問であった。元はといえば僕はニクラス・ルーマンの社会システム理論を熱心に勉強していたはずだった。社会システム理論を理解するにはオートポイエーシス理論に手を出すしかなかった。僕はオートポイエーシス理論を追いかけていたらどうやら精神分析に行き当たったらしい。

 

河本英夫がいうように、結局のところオートポイエーシス理論は臨床現場の理論であり、言葉でどうこうして理解したのであれば、当のオートポイエーシス・システムからズレていくという致命的な問題があった。

社会システムとは簡単に説明するなら、コミュニケーションを産出するシステムのことである。僕はこのシステムを2者間の小さなコミュニケーションシステムと想定したとき、殆どの心理療法は2者間の社会システムであると確信した。おそらく心を想定したり、脳をパーソナルコンピューターの情報処理システムとみなしたりする前に、心理療法は純粋な2者間のコミュニケーションシステムであるだろうと思った。つまり心の探求や認知科学による脳の探究だけが、心理療法を説明する特権的な言説ではないだろうと思った。システム論としても描けるはずである

 

認知行動療法精神分析ではクライエントが語る内容が全くといっていいほど異なっている。その証拠に逐語録をみればこのカウンセラーは認知行動療法家、精神分析家だという区別は殆どのカウンセラーができると思う。つまりそのシステムで支配的な会話のコードがあり、またそのコードを我々は逐語からでも読み取ることができ、このコードはおそらくそのカウンセラーが意欲的に創発したものである。そして治療的なコードは一義的に決定することができないし、歴史的にみればそのような治療的な会話のコードはカウンセラーによって発見、もしくは創発されてきたのである。だからこの世には沢山の心理療法があり、そして治療的に働くコミュニケーション・コードが沢山存在するのだろう。またクライエントの生命システムへの撹乱についての詳細な記述は未だあまりない。ただいえるのはカウンセラーもクライエントも社会システムに巻き込まれる形でコミュニケーションを行わなければならないということだ。カ

 

そもそも2者間のコミュニケーション・システムの側からみれば、カウンセラーもクライエントも、このシステムに巻き込まれてしまっているものであり、会話の内容を全て制御することは誰にもできない。心理相談室に来て、駅前にできたケーキ屋のモンブランが美味しいという話をしてもいいし、好きなアニメの話をしてもいい。実際に大学の学生相談室でこのようなことはある。またカウンセラーは自身の依拠する理論または経験に従い、カウンセラーという権力を用いてコミュニケーションシステムを治療的なものへと変えようと働きかける。それに抵抗するようにクライエントはクライエントの独自のやり方でコミュニケーションシステムをコントロールしようとするのであり、その程度の強さが強ければ強いほど神経症圏→境界例と判断される。そのためある心理療法が効く効かないの中には心理療法的関わりがもつ効果以前に、そもそも2人の間にコミュニケーションが成立するかという問題がある。2人で語り合うこと止め、恋に落ちる者も居れば、来なくなってしまいこともある。
つまりコミュニケーション・システムは可能性としてどのようなコミュニケーションが行われても構わず、またそれを完全に制御することはカウンセラーであっても不可能なはずである。

 

あなた(客観)でも私(主観)でもないシステムという第3の視座からみれば、カウンセラーがクライエントの問題を解消、または効果的に治療することと、コミュニケーションシステムのコードを創発することはかなり関係があるだろうと思った。カウンセラーにできるのはまず治療的に働く「場」の設定である。そして「場」とは治療的なコードに伴い産出されるコミュニケーション・システムとその空間のことである。

そういうことを考えているとどうやら実際に心理療法をやってみるしかないと思ったし、現場に出るしかないなと思った。そんなわけで外国語学部から鞍替えし、臨床心理系大学院の試験を受けたのだった。

僕のように半ば空想がどんどん湧いてきて、それが進路や将来に決定的な影響をもたらすタイプの人間に、僕がアドバイスをできるとしたら、それはどこかで現実と接点を持つべきだということである。僕は臨床系の中では比較的に理論を腹に据えているタイプの人間だ。我々はすぐに空想的観念が泉のように湧いてくるため、その空想に付き合いつつ理論のような硬いものに身を寄せるべきなのである。あわよくばその空想で身を寄せた硬い石を壊してしまいたいと空想しながら、石なしでは済ませられないと思うのである。

彼女は良く寝る子である。そして寝起きがとてつもなく悪い。まるで不意に起きてしまい不安になりお母さんを探す赤ちゃんのように(なんと精神分析的な!)。僕は今日みたいにデパートに1人で来るときは、帰りにタピオカミルクティーを買って帰る。そうすると幾分か彼女の機嫌が良くなることを経験的に知っている。僕は空想に耽り文章を書くと、とても脳内がリセットされて気持ちが良くなる。自分の空想を外に出すと色んなことに飽きることができる。そしてまた脳内に空想がゴミのように溜まってきたら、こうやって大型デパートの3階のベンチで吐き出して、日常へと帰っていくのである。

コレコレとマホトと未成年の子の話

概要はシンプルにコレコレすげーって思ったのと未成年の子について。

ワタナベマホトの件について。これを知ってみんなどう思ったんだろう。単純にあいつを悪者として処理して終わらせてしまうんかな。そもそもこういう芸能人のスキャンダルとかニュースで見ることはあっても興味もって言及することはこれが初めて。多分自分が処理しきれてない

 

はじめてコレコレの生放送というやつをみた。ほんまにびっくりしたのは、コレコレがすごい被害者の方の心に寄り添ってる感じがした。なんかスキャンダルを放送する人ってくらいの認識しかなかったけどマジでびっくりした。エンタメとしてこの件を処理したとは俺は思ってない。あれは被害者の心に寄り添ってたと思う。どんな言葉をかけてあげるかすごい選んでたと思った。人から重たい話を1対1で聞いたことある人なら分かると思うけど、安易なアドバイスとか、過度に共感してあげたりとか、過度に相手を悪者扱いしたりとか、とりあえずその場から逃げたくなるもの。しかも限られた時間やったからコレコレにそんな時間ないし、その中でかけてあげれる言葉ってめっちゃムズい。これこれは自主的に送ったこととかちゃんとあかんってゆって、けど責めてるんじゃない感じ。あれはすごいなと思った。相手に考えさせるのって難しい。アドバイスしたくなる。答えがない問題に明確なこうしろってアドバイスとか大体無駄。主体性が前提にあるんやったら考えさせてあげるのが良いと思うけどムズい。あの限られた時間でのコレコレの対応はカウンセリングやなと思った。

 

たしかに未成年に性的な要求をしておいて、自分危なくなったら弁護士どうこうは卑怯やなと思う。けどこの超人気YouTuberと一般のファンがこう、特別な関係になった。そしてその体験って、被害者の人にとっては、夢みたいな体験やったと思ってしまう。世間がどうこうとか、悪いとかそういうのじゃなくて。純粋に誰かのファンになったことある人なら誰でも空想したことあるものやん。芸能人と普通の自分が特別な関係になるっていう。しかもそれがテンプレで詐欺の題材に使われたりもしてるわけやん。松潤が隠れて自分にメールしてくるとか、そういう詐欺。騙される人がおるわけやん。けど今回のこの件ってそういう意味では現実なわけやん。夢見心地やけど現実なわけやん。強調しすぎてもしすぎじゃないくらいのこと。

マホトの肩をもつわけじゃないけど、ひとりファンがファンタジーとしてもつ不可能な欲望と、マホトがもつ欲望を、1つの出来事として成立させるとしたら、それはああいう形になるしかないんかなって思った。俺はファンタジーの実現って話をしてる。マホトとか関係ない。そのファンタジーが実現するために、芸能人を騙った詐欺メールでもなく、今ここにある現実で、ファンともう一方の欲望を共に生起させるには、こんなやり方になってしまうんかなと思った。身分証の写った写真、バラしたら流出、弁護士、女の子の友達。。。

 

 

コレコレと被害者の方が電話してるのを見てて、ほんまにあの雰囲気にやられてしまった。被害者の人はこれから警察に相談するか今でも迷ってるって。けど刑法に乗せて手続きを進めるって、つまり夢から覚めることになる。
あと事実確認の件で、マホトがした性的な強要のリストに、これは私が自主的にしたってコレコレに伝えてて、ほんまにこの子正直やなって思ってしまった。私にも落ち度があるっていってたのも印象的だった。
結局こんなことになってしまって、事実はもう変わらないけど、その事実の捉え方は自分次第でかなり変わる。1つの犯罪事実として処理するか、1つの夢見体験として、ある意味で意義のある体験としてそれを今後時間をかけて処理するか、被害者の彼女はそこで揺れてる気がした。
そういう被害者を揺れさせるって意味で、芸能人っていう特権を使ってファンに性的なことを強要させるのはタチが悪いって意見はこの際マジでどうでもいい。被害にあった人が、犯罪にあったことを犯罪にあったと言えないからタチが悪いとかそういうのは今はどうでもいいしだれかはそういうこと言ってるから僕は言わんでもいいここでは。ファン心理ってファンタジーの世界を信じて信じて、このCDを買えば、この悪手会にいけば、ライブにいけば、何か貢献ができれば、この人ともしかしたら、もしかしたら、、、ってそういうファンタジーは無意識的にはもってると思う。
そうじゃないパターンももちろんあると思う。例えば推し同士の関係性そのものをファンタジーの題材として楽しむいわゆる「やおい」は、自分を疎外して、推し同士の関係性に萌えを発生させる方法でもある。
けどこの被害者の子はきっとそうじゃなくて、自分に偶然、奇跡的にやってきた人生の全てを賭けても良いって思える出来事の最中にいたわけで、周りが外から見て「それ犯罪」「それ騙されてる」とか、マジでどうでもよくて、そういうのってその最中にある人にしか絶対にわからんものやろ。マジで周りどうでもいい。
ほんで今回の特別な関係ははじまった時からいつか終わるような雰囲気がプンプンしてる。けどいつか終わるような雰囲気ってこの件だけが特別にもってるわけじゃないやろ。推しの引退、もしくは自分がもってるファンタジーの終焉は、ファンなら誰しも意識したくないけど、どこかで感じ取られてるものやろ。けど推す。そういうもんやんな。手元に残ったファングッズをいつか普通ゴミの日に出すときがくるかもしれへんって少なくとも心の中を直視しようとしたら、感じ取れるもんやとおもう。ただ物質をゴミ処理して、夢から覚めても、精神のほう、思い出の方はどうとでもなるやん。あー時間無駄したっていう人もおれば、人生の中であんな夢中になれたのはこのときだけ、ありがとうって思う人もおるかもせん。

被害者の人が今後法的にこの体験を処理していくのか、はたまたファンタジーのまま抱えるのかは分からん。どっちしても過酷な体験やと思う。けどハッピーな人生を送って欲しいなって素直に思う。人のこととかどうでもいいけど、この被害者の人にはハッピーになってほしい。
彼女の揺れは多分、彼を犯罪者に、自分を被害者にしてしまうのか、1つの夢見心地な特別な関係として終わらせてしまうのかの揺れやと思う。家族は絶対守ってくれると思う。けど家族が法的に守ってくれるのももちろんやけど、彼女のその夢みたいな体験を、受容してもらって、うんうんって、そんな楽しいこともあったんだねって、そこにあった彼女の欲望にも耳を傾けてあげて欲しい。彼女はきっと自分の内面を語る力をもってるとおもう。きっと世間が認知するゴミクズ胸糞案件とは違った内容のことが語られると思う。そういうことを語って良い場所をどこかで設けて欲しいなと思う。きっとそれは良い体験になる。

犯罪案件では被害者の欲望は抑圧されやすい。俺はこの件が今後どうなろうとマジで興味ない。被害者の人にお金入ったり、加害者の人が捕まったりとかマジ興味ない。

 

僕はが思うのは、彼女の中でまず、この特別な関係の喪失をゆっくり処理していく時間をあげて欲しいと思う。あんたかわいそうやったな、ごみみたいな男に強要されて。それだけじゃないと思う。そんな犯罪者はやく警察に捕まえてもらおう、それでもう安心やから。何も考えんでよくなるから。多分それだけじゃないと思う。その夢を夢のまま、聞いてあげて欲しい。

FUCK YOU お父さんとお母さんへ

 

私は今年で18歳になりました。今もまだあなた方の保護の中で生きています。親からの支援なしに現状の生活がままならない者にとっての葛藤のテーマは、おそらくどんな時代においても自立と依存の問題かと思います。自分ひとりの力で何かできるのではないかという期待と、自分はどこかで特別なのではないかという確信は、あなた方からの支援によって常に揺さぶりをかけられます。だからいつもありがとうと、簡単には言えない状況にあなたの子が置かれていることをどうか理解してください。そしてあなた方にもこのような葛藤を経験したのだろうと推測しますが、きっと、きっと、もう思い出せないでしょう。少なくとも自分のことのようには。

 

こんなバカバカしいと思える葛藤なんて、視点を変えてしまえばいいじゃないかと思うし、現にそうしたことを試したりしたこともあります。私にはこんなにも愛してくれている、支えてくれている家族をもっている、そしてその愛を背に頑張ればいいじゃないか。そう言い聞かせてみても、私の心はかたちを変えてくれる気配はありません。多くの場合、視点を変えれば現実すらも変わるものです。あの子はなぜあんなに学校で問題行動ばかりするのだろう。実はその子の家族関係は冷え切っており、唯一両親が二人顔を合わせて話し合うのはその子の学校での問題行動のことでした。その子の問題行動は離婚の危険にある家族を、解体する寸前のところで抱きしめているのかもしれない。この問題行動がなければ、すでに家族は解体していたかもしれない。このことに気づいた両親の関係は回復し、子どもの問題も随分落ち着いたようなんです。けれど人生全ての問題にこのような方法が通ずるのか甚だ疑問です。

 

例えばPTSDのようなトラウマ体験。人は想像を絶する経験を人生の中で経験することがあります。そしてその体験をしたという事実は変わりようがなく、記憶に深く深く抉り刻まれます。トラウマになるような体験は記憶に刻まれてしまう、というよりも記憶に落ちないことの方が重大です。
今さえあればいい、全てを捨ててもいいと感じ、あなたと私でひとつなんだ、そう感じながらながら恋愛し、そして終わっていった愛の記憶は、そのド派手な感情の痕跡にも関わらず、後の人生を低温で強く温めてくれるものであったりします。しかしどうして、あんなに傷つけあった愛の痕跡は、「いい思い出」として私をこんなにも暖かい気持ちにさせるのでしょうか。

 

視点の変更。思い返してみればあの恋はひどかったけど、それでもよかったよね、となぜ人は言えるようになるのでしょうか。それは視点を変えてみて、こういう見方もできるよね、というようなことではないように思います。喪失を生き抜くことは視点の変更のことであるはずがない。失恋の後、あなたも私も何度も何度もそのときを思い出し、また思い出し、永遠にも思える時間を無駄にして、そしていつのまにか霧がかった道を抜けて平野にでる。振り返ってみれば霧は晴れていて、なぜ自分がこんなにも道を歩くことすら苦しかったのかをもう思い出せない。仮に記憶に視点の変更が加えられるのは平野にでてからのことであり、全くもって視点を変えることすら不可能な事態が人生には溢れている。


お母さんお父さん、私は自分のことを愛しています。信じがたいことですが、どうやらあなた方にも私と同じ年齢の時代があり、そして同じようなことで思い悩んだ時期があるのですよね。けれどあなた方はもうそのときのことを自分のこととしてありありと思い返すことができないでしょう。だからこそあなた方と私は今まで多くの言い争いをしてきたのでしょう。

 

私はいま文章を書いています。しかもかなり急いで、追われて書いています。ある直観があるからです。どうやら私も、あなた方と同じように、この霧がかった道を抜けて平野にでるような気がするのです。そして振り返ったときにはもう霧は晴れていて、自分が何に苦しんでいたのか忘れてしまいそうなのです。記憶に落ちてしまいそうなのです。いつかは分かりませんが、そういう気がするのです。もう今の感覚は思い出すこともできなくなるような気がするのです。1日が24時間以上の密度ではなくなる気がするのです。そして私もあなた方と同じ側になってしまいそうなのです。これは視点の変更ではありません。何も変わっていないのに何かが変わるという予感に突き動かされて私は私のことを書いています。


お父さん、私が3歳くらいのときの話です。私はとても階段が好きで、一人で階段を上ったり下りたりするのが好きでした。ある日あなたは私を階段の5段目に立たせ、階段の下から「ジャンプ!」といいました。私は階段は上ったり下りたりするものだと思っていたので、ジャンプすることがとても怖かった。泣き出しましたが、あなたはじっとまって「ジャンプ!絶対大丈夫!」と言い続けました。私はついに意を決しジャンプし、あなたの胸に飛び込みました。するとあなたは私を階段の6段目に立たせ、「ジャンプ!」といいました。そして7段目に立たせて同じことをいい、8段目に立たせて同じことをいいました。わたしのお父さんについての最古の記憶はこのエピソードです。私はこの記憶をとびっきりの愛の記憶だと感じています。こんなにジャンプを怖がる私をじっと待ち、そして恐怖を消し去るように私は飛躍し、無限にも思える空中での時間と私を諸共抱きしめてくれました。そして階段の高さがどれだけ変わっても、もう私には恐怖はなく、あなたに向かって飛び込みさえすれば、絶対に愛してくれるという強い確信があります。思春期に入っていろんなことがありましたが、いろんなことができたのはあなたへの愛の確信があったからです。私が生まれた時、趣味だったレコードの店をやめて工場に働きに行ったことを知っています。趣味のサーフィンとテニスをやめて、昼も夜も働いていたことを知っています。とても忙しいあなたはお母さんに、子どもに関わる時間がないことを申し訳なさそうに話したことも知っています。えっへん。色々知っています。そんなあなたが私のために向かい合ってくれた数少ない記憶のひとつが階段のエピソードです。他にもあっただろうとあなたはいうかもしれません。けれど残念です。本当の意味で私の心に触れたのはそのときだけです。というよりも恐らく、そのときに私のこころができあがったのです。あなたが私に触れたから、外と内とが分かれました。あなたの触れるという行為が触れられるという私をつくりました。それは心というものです。ありがとうね。安心して下さい。視点の変更を加えて、私の父親は子どもにジャンプを強制する支配的な父親だと改変するつもりはありません。そんなこと私が許してくれません。


お母さん、あなたは私をみていますか?私が中学生のとき、あなたからおこずかいを2000円もらっていました。その金額に見合わない量の香水や服や雑貨が私の部屋にあったことを知っていますか?

友達を殴ってしまい、相手方の歯を4本折ってしまったとき、あなたは泣きましたね。そして相手方の家族が「子どもの喧嘩ですからどうか頭を上げて」といって若干引くくらい、あなたが土下座しているのを隣で見ていました。きっと相手の子は、私の親は私のために怒ってくれないのだな、とか思っていたのかもしれませんし、そこまで気にしていなかったのかもしれません。私はというと反省もできず、ふてくされ、お母さんのみたくないところをみてしまったりして、すごい気分が悪かった。相手の家から帰るときの車の中は本当にここだけ重力がかなり強く張っているみたいでした。母と私、どちらが先に口を開かなければ、この重圧はきえそうにありません。

結局一言もしゃべらずに、自宅まで帰り、あなたが最初に話したことは「そろそろさ、万引きもやめてよ」でした。やっぱりあなたはちゃんと私のことを見てくれていたと感じました。私があなたに心を触れられたのは実はこのときが初めてです。もっとちっさい時にもあったでしょと思うかもしれませんが残念。そしておそらくこのとき初めて私の心が生まれました。あなたのみるという行為が、あなたにみられている私の心を作りました。不思議なのは父親の方が早く私の心に触れたことです。私は父親を長く嫌ってきたのに、あなたの方が私の心に触れるのが遅かったというのは少し腹が立ちます。体感的にはあなたの方が早いと思うんだけどなぁ。

 

親愛なる家族へ。恐らくですが、こんな憎たらしい私は消えてしまいます。そんな気がします。直観ですが多分当たります。あなた方だってそうだったんでしょう?そして思い起こせなくなったんでしょう?だったらこれから消えゆく私にお別れをしなくちゃいけないし、あなたがここに存在したんだということを記憶としてどうにか残せないかと模索することは悪いことじゃないでしょう?きっと死んでしまうあなたのことを、私は恐らくもう思い出せなくなるけど、思い出せないけど在るという感触を残すことはできるとおもうんだよね。残り香みたいなもの、触れられて凹んだ皮膚みたいなもの。

 

お父さんお母さん。私はあなたを愛しています。けど愛しているということが愛していることではないように思います。おそらく今の私はそろそろ消えます。あなた方からも消えます。私に愛された感触を感じ取りたければ、この言い争いの日常生活から、どうか私の愛の感触を探り当ててください。上から目線でごめんね。きっと微かにしか感じ取れないかもしれないけど、かならず愛していますから。それは視点の変更を加えて、お父さんとお母さんにとって子どもとの言い争いの日々は苦しく怒りに満ちた時間だったけれど、事後的にお父さんとお母さんを私が愛していたという記憶にすり替わることじゃありません。今現在、まさに今、あなた方を愛しています。本当だよ。今までありがとうね。これからもよろしくね。